およそ100年前、この土地に有島第二農場という名前の広大な農場がありました。
「カインの末裔」や「生まれいずる悩み」などの著作で知られる有島武郎という人物がその所有者でした。
彼は自分の理想と農場の小作人たちが置かれている現状の差に特別な思いを持っていました。
そこで彼は農場を整備し、相互に助け合う組合を結成させ、農場を小作人たちに無償で分け与えました。
農場主が小作人から搾取することが当たり前であった当時、有島武郎が行った農地解放は大変画期的なことでした。有島武郎への感謝やその行いを後世に伝えるために、ニセコ町には有島という地名や有島記念館が残されています。
以来、第2農場を分け与えられた人々は有島武郎の望んだように相互に助け合い、農業を営んでいました。しかし、旧有島第2農場の大部分は勾配の急な斜面、岩だらけの土地で、町の中心からも離れていました。
時が経ち、経営が上手くいかずに農地を手放して離農する家族が現れ、農地が原野に変わっていきました。
約20年前、多くの人々の思い入れがあるこの特別な土地を購入する男性が現れました。
男性は、農場から望む羊蹄山の姿に惚れ込み、この厳しく多くの人が農業を諦めたこの土地に可能性を感じました。
若いころに一人で来道し、開拓団に加入後、酪農家として原野を切り開いてきた経歴を持つ、フロンティア精神に溢れている人物でした。
多くの人々の手を借りながら、還暦を超えた年齢ながらも自らトラクターに乗って、原野を牧場へと整備し続けました。
男性は広大な土地を開拓するパートナーとして、ダチョウに目をつけました。
旺盛な食欲と高い生命力、粗食に耐える消化能力など、これからの食肉として世界的に注目されていました。
しかし、まだ日本では確立していないダチョウの飼育は一筋縄ではいかず、厳しい環境にある原野の開拓も遅々として進みませんでした。
しかし、その男性は粘り強く取り組みました。
新たに牛を導入し、入り組んだ林の中や笹薮を牛の蹄によって拓かせました。またダチョウはその旺盛な食欲で、牧場に茂っていた手に負えない雑草を食べ、糞は土地を肥やしました。
みるみる美しくなっていく牧場は多くの人々の目にとまり、「どうしてこの牧場の草の色だけは秋になっても青々としているのだ!」と感嘆させました。
動物が豊かな自然の中でのびのびと過ごす姿は訪れた人々を感動させ、子供を連れた親子や旅行者、写真家や画家といった芸術を愛する人々も好んで訪れる場所になりました。
100年の時を経て、農場は、有島武郎が愛したニセコの自然を守りつつ、新しい感動が次々と生まれる場所へと変わりました。
有島武郎やこの土地にかかわったすべての人々の想いを受け継ぎながら、これからも人々に愛されるこの地を守り続けていきます。